
源頼義ゆかりの鋳物師 |
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みちのくの伝統工芸山形鋳物は、みちのくの反乱から生まれました。今からおよそ九百年前、平安時代の康平年間に、安倍貞任・宗任の乱平定のため源頼義が山形地方を転戦しました。そのとき従軍した鋳物師が、山形市内を流れる馬見ヶ崎川の砂と千歳公園付近の土質が鋳物に最適であることをたまたま発見。何人かがこの地にとどまり、これが山形鋳物の始まりとなったのです。 |

芋煮会でにぎわう現在の馬見ヶ崎川
最上義光の庇護を受け |
| 「銅町」という全国でも珍しい町名のある山形市…。この名の由来には、兼頼から数えて十二代目の最上義光までさかのぼります。 慶長年間、山形領主となった義光はご城下の再編成を行ないました。その折鋳物師たちを鍛治町から隣りの町に移し銅町と命名。火を扱う町だけを並べる町づくりをしたのです。 そこには鋳物師17人が移り住み、鋳物産地としての基礎がつくられました。日本における工業団地のはしりとも言えましょう。 その当時の鋳造は「建吹き」といい仏具や日用品の小物の製作にとどまっていました。それが元和元年(1615)銅町九人衆の一人である庄司清吉が京都などの先進地を視察して帰り、足踏式の「たたら」を考案。これにより世に名高い山形唐金鋳物(ブロンズ)の技術が確立されたのです。 その後わずか数十年で、梵鐘や灯籠などが鋳造されるまでに山形鋳物は飛躍的に発展したのでした。 |
出羽三山への参拝人が育てた
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| 修験道で知られた出羽三山神社の霊験は、山形鋳物にもあらたかでした。当時の山形の町は、三山への参詣人が一夏一万人にも及ぶという賑やかな門前町です。みやげとして求める山形鋳物の仏具や日用品もおびただしい数にのぼりました。こうして山形鋳物の名声は全国に広まり、銅町
は一大鋳物産地として発展していったのです。 明治時代に入ると、山形鋳物の優れた技術を実証したエピソードがあります。明治37年に起こった日露戦争時に、全国の鋳物師が集められ砲弾の製造に従事しました。この正確な寸法形状が求められる製造工程において、山形鋳物師の技術は他を圧倒したのです。 九百年の伝統のなせる技でしょう。 その後も山形鋳物は順調に発展し、昭和49年に通産省が指定する伝統的工芸品として第一次に指定されています。 |
山形の茶の湯釜 |
| 日本文化を代表する茶道になくてはならない茶の湯釜。そのほとんどが山形産と聞いて驚かれる方も多いことでしょう。鋳鉄工芸の白眉と言われる茶の湯釜が高く評価されるのは、山形鋳物の優れた意匠力と技術力の何よりの証です。これには、重要無形文化財技術保持者に指定された山形ゆかりの釜師長野てつ志先生のご指導が大いにあずかっていました。
現在も日本工芸会などで多数の入選者を出し、山形釜師の名声はさらに高まっています。 静かに湯をたぎらせながら茶席の品格を語る茶の湯釜。みなさまに心のくつろぎをお届けします。 山形県鋳物協同組合『山形鋳物』パンフレットより |

『文翔館』
明治時代に建てられた旧の山形県庁舎
清光堂のあゆみ |
| 現在の巨エ光堂工芸社の始まりは、江戸時代後期に初代喜六が銅町において、鋳物業を始めたことに端を発します。以降その技術は代々伝承され、羽広鉄瓶を得意とした六代目徳太郎が『清光堂』を屋号としました。七代目善太郎は茶の湯釜、鉄瓶の製作で名を馳せて高い評価を受けるようになります。
戦後になり八代目清光が、その卓越した技術と天性の美術的才能を生かし茶の湯釜専門工房としての現在の清光堂の基礎を築きあげました。 現在は、九代目にあたる旺光が父祖の遺志をつぎ用の美に満ちた茶の湯釜の製作活動を続ける中、息子である十代目琢実への技術の伝承にも力を入れています。 日本の伝統文化を代表する茶道。茶事を催すこと自体を『釜を懸ける』と言いあらわすように、お茶席において不動の位置を与えられた道具が茶の湯釜です。その存在感から釜は席中において亭主の代理を務めるとまで云われ、亭主が席を離れるときも炉中に在し客の相手をします。 茶の湯が一般に普及するにつれて用いられる釜に対する審美眼も一層磨かれてきていますし、精神性を慮る茶の湯の世界において、その姿と履歴は亭主の客に対する想いをも具現化します。 先人より受け継がれてきた用の美とその伝統を守る責任が我々造り手にこそあり、技術と一体にその伝承が成されなければ目に新しい技巧ばかりが表面化してしまいます。これら、先祖より脈々と受け継がれてきた私共の茶の湯釜つくりに対する想いが、釜と使い手の方々との出会いを通じ御理解頂ければ嬉しく思う次第です。 |
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